地元に拠点を移しハンドメイドギャラリーを始めた話11

作品が増えてくると誰かに見せたくなる。

事務所の打ち合わせスペースに飾ったりしたが、そもそも来客が滅多に来ない。

そこで都内で開催されるアートイベントなどに参加することにした。

いろいろな人に見てもらうと刺激になり、購入してもらうと喜びもひとしおだ。

売り上げ的には成果がいまいちでも、出展することで、様々な人と触れ合うことができ、そのことが楽しくなっていった。

神楽坂アートフェスタ

地元に拠点を移しハンドメイドギャラリーを始めた話10

実際に分解してみて驚いた。子供の頃のそれとは違う部品たちの姿。

まるで鉄腕アトムなどに出てくる世界そのもの。(例えが古くてすみません。)

そのかっこいいフォルムがおりなす空間は未来都市を見ているようだった。

ちゃんとした製品のうちは決して日の目を見ることはなかった部品たち。

かっこいい形状の部品を主役にし、それらを組み合わせてオブジェや額装・アクセサリーなどの作品にしたりしていました。

徐々に作品づくり、ハンドメイドにはまっていった。

地元に拠点を移しハンドメイドギャラリーを始めた話9

ある日、廃棄もされず触られることもなく、仕事場の隅にひっそりと置かれていた壊れたスキャナーの機械に目が行った。

「これ、処分しないと」と思いつつ、気まぐれで分解してみようと思い立った。

細分化出来れば粗大ゴミではなく普通ゴミとして処理できるのではないかと考えたからだが、それ以上に分解することへの興味がむくむくと湧き上がってきた。

子供の頃、壊れた時計を分解し中から出てきたゼンマイや歯車を見て興奮しいてた。

壊れてもいない扇風機を分解し、元に戻せなくなった時もあった。

年を経てすっかり忘れていた分解への興味が、壊れたスキャナーを目にして蘇った。

ほとんど着なくなったTシャツをリメイク

なんとなくデザインが気に入らなくて、ほとんど着ていないTシャツを再生しよう!

新品に近いTシャツ

サイズはちょうどいいが、デザイン的にあまり気乗りがしなくてほとんど着ていない。

そうだ、再生させよう!

完成

地元に拠点を移しハンドメイドギャラリーを始めた話8

何か他の道も考えておかないといけない。

そう考えてもいた。

独立して孤独になったのと同時に、いいこともあった。

自由時間が増えること。

仕事の合間に空き時間ができるのだが、誰かの目を気にして仕事をしている振りをしなくていいのだ。

昼寝もできる。

空き時間ができると私は絵を描いたり工作をしたりして遊んだ。

子供の頃から図工が得意で何かを作ることが好きだった。

地元に拠点を移しハンドメイドギャラリーを始めた話7

仕事をとりまく状況も良くない方向に変わっていった。

バブル後の低迷期からやっと這いあがろうとしている矢先にリーマンショック。続いて東日本大震災、不況に拍車がかかる。

真っ先に仕事を切られるのは個人で仕事をしている私のような外注だ。

加えて私自身の高齢化。

クライアントの担当者も歳下であることが当たり前。歳上の外部の人間に仕事を出しづらいことは想像に難くない。

さらに出版不況、紙媒体離れは年々深刻化している。

業界全体の仕事量が減少しているのは明白だ。

仕事の受注量減少に歯止めがかからない。

デザインフェスタを終えて

「デザインフェスタVol.53」2021年5月29日・30日の2日間、東京ビッグサイト青海展示棟にて開催。「ボロパッチジャパン」として初出展しました。

竹細工作家の大先輩、江口信男氏との共同出展。

結果的に僕は惨敗、玉砕されました。江口氏はベテランの貫禄を見せての勝利でしたが、僕は初陣の洗礼を受けました。

あらゆることが中途半端に終わり、戦い方のポイントも絞れないまま、なす術もなくといったところでしょう。

このままでは終われない気がするし、次回参戦するにしても戦術を練り直さないといけないということが分かりました。

勉強になることが多かったイベントでした。

地元に拠点を移しハンドメイドギャラリーを始めた話6

都内のマンションの一部屋に事務所を借り、船橋から1時間半をかけ通勤し、グラフィックデザインの仕事を一人でしてきた。

仕事は印刷物のデザイン・制作を下請けで受注することが多い。

パソコンで作業するので、事務所として借りている一室から外に出ることはほとんどない。

独立した当初は、打ち合わせや原稿の受け渡しなどでクライアントに会うこともたまにあったが、年を経るごとにだんだんそれも減っていった。

メールのやりとりで済んでしまうからだ。

そうなるとほとんど人に会わなくなる。

一日誰とも話さないことも結構あった。

無論友達もできない。